パンドラの箱

看護学校時代、小児の精神科の実習に行ったときに、精神科の専門看護師という人に出会った。臨床心理士も同じチーム内にいた。精神科の専門看護師と、臨床心理士。その違いが私にはわからなかったので、どう違うのか?と聞いた時のその方の返答がとても興味深かった。

「過去の辛い現実や、経験に蓋をしているとき。時にはその蓋を開けて、中の辛い記憶と向き合わないといけないこともある。そこを開けるのは、臨床心理士の役目。精神の専門看護師は、蓋はしたままの状態でもいいから今をどう生きて行くか。そこにアプローチするのが自分の役目だと思っている。」

なるほどなあと、とても合点がいったのを覚えている。

 

こんなこともあった。以前、大学病院のNICUインターンした時のことだ。低出生体重児や障害を持つ乳児を持つお母さんの話を聞く心理士がいた。心の中に渦巻くどろどろした感情を吐き出す場。良い感情だけでなく、汚い自分も必ずいる。他の人には言えないそんなことも、心理士には吐露できる。しかし、そんな時期を乗り越えて、元気になった子どもが退院した後、お母さんたちはお世話になった看護師には会いに来るが、心理士には会いたがらないという。蓋をしている感情をさらけ出したことは、決して気持ちのよい思い出ではないのだと知った。それを聞いて、自分は臨床心理士にはなれないと思った。

 

丸裸にされるのは、誰だって嫌なのだ。汚い自分や、かっこ悪い自分。そういうものを抱えながら、それでも人間は今を生きているわけで、時にはくさいものに蓋をして、見てみぬふりをすることだって大切なのだと思った。

 

自分だけが知っている自分、ジョハリの窓で言う、秘密の窓だって確かに必要だ。それでも私は、自分のことを知りたいと思う。秘密の窓は持ちつつも少しずつ狭くしていきたい。盲点の窓も人との対話によって自分を知ることで狭くして、開放の窓を少しずつでも広げていけたら良い。自分に関しては。

 

でも、土足で人の心に踏み入るのは暴力以外のなにものでもない。相手の気持ちを思いやる。蓋をされたくさいものは、なんか臭ってくるなあと思っても、目を背けて敢えて知らんぷりすることも優しさなのだと思った。くさいものに蓋。改めて、先人はうまいこと言うなあ。夏の生ゴミは、蓋しててもやばさが滲み出てくるけどな。

 

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