西瓜

マラソンをしている時は、あたまの中が自由になる。必然的にいろんなことをゆっくり考える良い機会になるから好きだ。

 

一〇キロメートル。バリバリ運動していた昔の私にとっては屁でもない距離だが、今の私にとってはこれが精一杯。でもこの一〇キロメートルを走る一時間が、なかなか奥深い自己内省の時間になるのだ。三年目の出場となる大会だが、過去二年は一人で参加していたので、終わった後のスイカを食べるのも一人だし、必然的に大会に出ること自体が目的になっていた気がする。タイムやペースも気にしつつ、結局自己満足、自己完結の世界。でも今年は、距離は違えど一緒に参加した方がいたこと、応援に来てくれた人がいたことが大きく違う。走っていて死にそうに苦しくても、終わったらみんなでスイカを食べよう、とか、どこかで私のことを見ていてくれている、という気持ちが一歩を踏み出す大きな支えとなった。びっくりするぐらい、精神的支えは大きい。

 

自分の気持ちの変化を敏感に感じ取るのもおもしろい。上り坂になると、練習不足がたたって沢山の人に抜かれて行く。私は本当に上り坂が苦手だ。男の人に抜かれるのは気にならないけど、女子に抜かれるとやっぱり悔しい。悔しいけど、足が動かないのだもの、仕方ない。もうこのまま朽ち果てるかと思いきや、少しして呼吸が安定してくると足が軽くなってまたスピードを取り戻す。気付くとさっき抜かれて姿も見えなくなった人が隣にいたりして、ああ、人生こんなもんだよなあと思う。平地や下り坂ならば、私は走れるのだ。上り坂でどれだけ抜かれても、他の所で取り返せばいい。自分にとって苦手なことも、隣の人にとっては得意かもしれないし、そこだけ見ると自分が落ちこぼれのように感じても、おしなべて見れば大して変わらないこともある。目くじらを立ててひとつひとつを人と比べるのはナンセンスだよな、とぼんやり考える。今年は腕時計を忘れてラップタイムをはかれなかったが、なんだかそれが逆に良かった。スタートして走り出して、ゴールする時に初めて自分のタイムを知る。こまめに自分の立ち位置を確認しなくたって、死ぬときに自分はこんなところにいたのか、と眺めるのも悪くない。

 

鳥取に来て一番良かったと思うことは、周りを気にしなくなったこと。同期もいないし、専門学校時代の仲間は年齢も状況も全く違うから比べる対象がいない。自分のペースで自分の好きなことができるようになった。初めて、のびのびと生きることができるようになった気がする。産後の授乳で悩むお母さんも、自分と赤ちゃんだけを見て一番良い状況を考えていけばそれで十分なはずなのに、みんな口を揃えて言うことは「お友達は完全母乳なのに、私だけミルクを足している」。状況はみんな違うのだから人と比べる必要はないのだけれど、そう思ってしまう気持ちも痛いほどよく分かる。見ないことが難しいのならば、見えないところに行けばいい。自分の傾向を知り、自分が心地よい方向へ自分を持って行く。思い切って逆サイドにボールを放ってみれば新しい世界が見えてくる。

 

そんなことにまで思いを巡らした一時間。巨大スペクタクルを終え、満足気にむしゃむしゃスイカを頬張る。これがないと、夏は始まらない。

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