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さとええやん

映画

「さとにきたらええやん」を見てから、胸のあたりのもやもやが消えない。見てすぐはなかなか言葉にならなかった。パンフレットを読み、SHINGO★西成の歌を改めて聞き、映画の場面を思い出して涙が溢れてきた。今まで自分が経験した色々な場面を反芻して、じわじわ味わいが増してきた。良い映画は、すぐには感想を述べられない。

昨年、ひょんなことから飛田新地に足を踏み入れた時、とても衝撃的だったのがそのすぐ横のガード下のような公園で、子ども達が元気に遊んでいたこと。自分の中で相容れないと思っていたふたつの世界が、融合している。その不思議さ、理解不能な感覚を今でも鮮明に覚えている。釜ヶ崎は、なんだか異様で危険な場所、子どもが近づく場所ではない。そう思っていた。しかし、今回「さとにきたらええやん」を見て、そう思うこと自体が偏見だと気づいた。そこで生きる大人がいる限り、その場所に生きる子どももいる。色んな生き方があって、色んな仕事があって、でもみんな一生懸命生きている。誰に教わるでもなく多様性を理解し受け入れ、笑顔いっぱい強く生きている子どもたちが眩しかった。

釜ヶ崎にある「こどもの里」、通称さと。駆け込み寺のように、児童館の役割や中・長期的な宿泊施設、事情がある子どもへの里親役割まで請け負う。しかも無料で。私が一番印象に残っているのは、子どもをさとに預けている親にも寄りそうスタンスだ。どんなひどいことをする親でも、子どもにとっては「宝」。親のしんどさもやさしく受け止める近所のおばちゃんのような存在だからこそ、親も鎧を着ずに「ちょっと助けて」と言える。親を悪者にしない。多様性を認める釜ヶ崎だからこそのやさしさだと思った。

 

「適度な距離感で関係性を維持していく事によって、子どもは見捨てられ感を抱かずに生きていけるし、母親も過度な負担を背負わずに済む。これは新しい、社会全体で共有すべき家族の形だと思いました。」(重江監督:パンフレットより)

 

家のことを家の中だけに留めず、社会全体で子どもを育てる。ひとりで子育てなんて絶対無理だからこそ、近所の人が当たり前のように子どもに目をかける。それができなくなっているのが今の社会だ。私自身、職場で出会う支援がないお母さんたちに、保育園の送り迎えを他のお母さんに頼ることを提案すると、「何かがあった時に自分を責めそうで」となかなか頼れない。自分の頑張りで補うか、お金で解決する。そんないびつな頑張りで成り立っている核家族で、母も子どもも孤独を感じている。そんな社会はやっぱり無機質で冷たい。

ホームレス襲撃事件も、今まで自分の認識では「ひどいことをするギャング」と「やっぱり路上生活なんて危険で、そんなところにいるホームレスの人が悪い」というなんとも表面的なとらえ方だった。しかし、ことはただの一事件ではないのだとこの映画を見て気がついた。

 

「家にも学校にも地域にも、さとのような場所がない、ホーム・レスな子どもたちが、その孤独、つらさ、苦しみを、抱えきれなくなったとき、心の汚濁をぶつけるように、怒りを暴力に爆発させ、他者を傷つけ、さらに自分を傷つけていってしまう。ホームレス襲撃事件とは、そんな居場所(ホーム)なき子どもたちが、弱さや貧しさを増悪する、家(ハウス)なき野宿者への攻撃であり、「路上のいじめ」に他ならない。」

          (北村年子:パンフレットより)

 

路上生活者の人、日雇い労働者という社会の「最底辺」と言われる人々にも事情があり、必ずしも皆が怠け者なわけではない。「自分なんて」と口にする自尊感情を失った人々にも、さとの子どもたちは「子ども夜回り」としてあたたかい声をかけていく。相手を知らないことこそ、想像力の欠如による残虐性へと繋がる。偏見もしかりだ。さとの子どもたちの方が、私よりよっぽど人の弱さを知っていて、やさしい。

「さとはすごいな」で終わらせず、今の自分にできることは、自分のクリニックで出産したお母さんたちに、クリニックをさと=ホームだと感じてもらうようにすること。デメキンやさとの職員さんたちの、親や子どもたちへの関わり方をヒントにして、「普通でない」人にも偏見を持たずに関わること。多様性を認めること。相手の気持ちを想像すること。月並みだけど、まずはそこから始めようと思う。釜ヶ崎は今までの自分の常識がぶっとぶ、混沌とした奥深い場所。機会があったらまた足を運んでみたいと思う。まだまだ知らない日本がある。あと、SHINGO★西成めっちゃいい。

 

「さとにきたらええやん」

http://www.sato-eeyan.com

SHINGO★西成/切り花の一生

www.youtube.com

 

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