愛でる

ここの所、床の雑巾がけをしている。雑巾がけなんて小学校の時の掃除の時間以来ではないかと思う。その頃は、床は汚いし雑巾は牛乳臭いし(記憶の中ではそうなっている)、男子はちゃんと掃除しないし(定番の)、雑巾がけなんて大嫌いだった。実家は絨毯だったし、一人暮らしのフローリングの家も掃除機とクイックルワイパーで済ませていたので、雑巾がけをするなんて考えもしなかった。大人になってから、先輩で雑巾がけが日課という方がいて、朝起きたらまず雑巾かけをしてから仕事に行くとおっしゃっていた。それが一日の始まりなのだという。なんのために。全く理解できなかった。

新しい家の板張りの床は、私が来た時は埃がたまりたまって靴下が黒くなるほどだったので、仕方なく一通り雑巾がけをした。雑巾は一瞬で真っ黒になるのでバケツに水を汲んできて、無心でゴシゴシ拭いていく。ゆすいで、またゴシゴシ。こうして最低限の「汚くはない床」を手に入れたが、今度は床の乾燥が気になり始めた。家が広いから床が沢山見えるということもあるが、カスカスに乾いた床がなんだか不憫に思えてくる。ご老体といえど、少しばかりは艶を出してあげたい。調べると米のとぎ汁で雑巾かけをすると艶が出るとのこと。早速、仕事帰りにとぎ汁で雑巾がけをしてみたところ、少しだけ艶が出て息を吹き返してきた。真っ白な米のとぎ汁が、濃い灰色に変わっていく。まだいたのか、汚れよ。ワックスほどではないが、足触りが少しだけ滑らかになり、とりあえず満足した。

こうした床の変化も勿論嬉しいのだが、雑巾がけの作業自体が思いがけず結構楽しい。無心で床を拭いていると頭の中で色々な出来事が蘇ってくる。小学校の時の掃除の時間も、雑巾がけが日課の先輩の話も、すっかり忘れていた。あの時あの人、あんな風に言っていたなあ、とぼんやり思い出すことは趣深い。前に進んでいく時間の中で、単純作業を無心で行うことでふりかえりの時間を持つことができる。一日五分でもこういう時間を作ることはいいなと思った。雑巾がけとはその象徴だったのか。なんと。

もう一つ思い出したのは、祖母からもらった鞄のことだ。祖母が昔使っていた革の鞄をとても気に入り、大学生の頃からずっと使っている。相当年季が入っているのだが、それこそが味というもの、革はこうでなくっちゃ、くらいに思っていた。しかし、革が大好きなおじさまと知り合った時に「お手入れしてあげないと革が可哀想」と嘆きの声をいただいた。そして、丁寧にお手入れをしてくれた。「砂漠に水をやるようで、クリームを塗っても塗っても吸い込んでしまってきりがなかった、また手入れにおいで」と言われた。長年の無頓着のツケだ。使い古すばかりで、お手入れなんて考えもしなかった。私の鞄をお手入れしてくれているおじさまの、革を愛でる優しい眼差しが今でも印象に残っている。

物を長く使うならば、それなりにお手入れもしっかりとしてあげないといけない。好きなものだからこそ、時々ご褒美もあげながら、大事に使っていく。労働力の酷使ばかりしていた自分を恥じ、これからは砂漠に水を運動を心がけていきたいと思う。

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