臨界期

藍染めをした。友人の結婚式のスタッフの目印用として、今回限りの使い捨てにならないで長く使えるものを。ということで、同居人たちと染め物日和の晴れた日曜日に家のガレージで作ることにした。

染め物に、実はたいして興味はなかった。小学生の頃に絞り染めを化学館かどこかでやったような気がするが、特に印象に残っていない。今回はお祭り事だったので重い腰を上げてみたのだが、これが思いのほかとてもおもしろかった。

真っ白な手ぬぐいを水で濡らしてから、藍液に浸していく。染め物って、色のついた液体に浸せばただその色に染まるだけかと思っていたが、そうではなくて化学反応というものが介入する。つまり、染めたばかりの時と出来上がりが全然違うのだ。空気に触れて酸化して徐々に色が変わっていく姿は、予想外で目が離せない。そして、浸し方によって色ムラができたり色づきが違ったりする。奥深い。完全に舐めていた。模様付けも楽しい。今回、三人で一人五枚ずつ計十五枚作成したが、三者三様の個性がでた。(ちなみに私は一番左の一列)

余った液で自分たちの衣服やカバンも染めた。これが一番興奮した。染みがついたり、くたびれてもうさようならしようと思っていたものたちが生き返るのだ。好きだけどもう着られないと思っていた綿麻のパンツが、今回素敵な藍色に生まれ変わった。自分が染めたというだけで、なんだかとても愛着が湧く。同居人は、真っ赤なバッグを紫に染めていた。色の足し算という応用編だ。可能性は無限大。奥深い。

今回は簡易的な藍染めキットだったが、本物の藍だと虫もつきにくいらしい。コーヒーやタマネギの皮でも染められるそうだ。家に何気なくぶら下がっていた絞り染めの暖簾も、これどうやるんだろうとしげしげ眺める。昔読んだ梨木香歩さんの『からくりからくさ』が、確か庭の草木で糸を染め、機織りをするような話だった気がする。今読んだらもっとワクワクしそう。前に奄美大島で会った草木染め工房のおばあちゃんも、都会からなんにもないと思っていた奄美に帰って来たら宝物の宝庫だったと気づいたと言っていた。当時は「ふうん」くらいで流していた染め物に関する記憶が走馬灯のように蘇る。

興味ってものは気まぐれだ。〇を一にする機会がまず大切だけど、機会があってもタイミングが合わないと〇のままだったりする。でもこの〇が一になると一が一気に一〇〇くらいになる。子どもの臨界期とかもこういう風になっているのかなと思った。時期とか心の余裕とか、その時の状況できっと違う。今このタイミングで出会えてよかった。

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