当事者性

やるべきことは山ほどあるのだけど、思考が前に進まない。本を読んでも料理をしていても、ぐるりと同じところに戻って来る。理由はわかっている。先週末に幸雲南塾の最終発表プレゼンへ二年ぶりに行ってきた、その余韻だ。二年前、隣りで一緒に発表を眺めていた友人が、今回は壇上で発表していた。

雲南には、もやついている時にパワーをもらいに行く。目をキラキラさせて前のめりに活動している同年代の人達に会えるから。二年前もそうで、そこで「うおお」となり、私も何かしたいと思って、産後ケアが当たり前に受けられる社会の実現へ向かい活動しているNPO法人マドレボニータNEC ワーキングマザーサロン・プロジェクト鳥取チーム立ち上げ、進行役に挑戦したのだった。私にもできること。私がここにいる意味ってなんだろう。それをとにかく模索していた。マドレの活動はとても刺激的で、今でも繋がっている大切な人々との出会いがあった。

「圧倒的な当事者性のパワー」

今回の幸雲南塾で審査員の友廣裕一さんがおっしゃっていた言葉がとても印象に残っている。アレルギーのお子さんを持つFood maricoさん。外国人が住み良い町へ、と革新的な活動をされている韓国人のジェジンさんと芝さん夫妻。ご自身の産後の辛い体験から産後ケアの大切さの認知へと活動される助産師の高木さん(Nalu助産院)…。みなさん、自分達の経験を元に、それを自己完結で終わらせず、発信して、形にしている。

サロンをしていても感じたこと。私にとって一番弱い部分。それが当事者性だと思った。助産師として働いている上で、産後ケアの必要性はひしひしと感じている。だからマドレの考えにはとても共感して、「こういうものがあったらいい」と本気で思う。実際サロンを開催して手応えも感じた。こういう場はやはり必要とされている。でも、私自身が本気で求めていて、溢れ出てくる思いというよりは、「助産師として」立場的に頭で必要だと感じているに過ぎないのではないか、という後ろめたさはあった。活動が忙しくなると、タスク化してしまい苦しくなる部分も正直あった。

「すべき論」から解き放たれようと、旗ふり役を手放した昨年一年は、趣味に明け暮れた年だった。自分のしたいことを好きなだけできる自由さ。好きな本を読み、休みには好きな場所に行く。趣味の世界が広がっていって、たくさんの出会いがあり、心の底から楽しかった。でも、どこかすべきことから逃げているような感覚は常につきまとっていた。そんなもやもやの糸口を見つけたくて足を運んだ幸雲南塾だっただけに、感じるものが余計大きかったのだと思う。

今年の幸雲南塾で感動したことの一つが、自分だけのハッピーではなく、それが広がって他の誰かのハッピーにまで繋がっている点だ。ボランティアではなく、自分たちも健やかにし、さらにそれが経済としてまわっていく。これをしながら自分たちが暮らしていける新しい暮らし方を作って行くこと。赤ひげ先生のような自己犠牲ではなく、自分もまわりもハッピーになる。そんな世界はなんてワクワクするだろう。そして、発表している皆さんがとにかく楽しそうに見えた。もちろん、そこへ至るまでに大きな山や壁を越えて来たからこその笑顔だとは思うのだけれど。

 

自分も何かやりたい。でも、また苦しくなってしまうことへの怖さ。今の穏やかな生活の心地よさ。多忙は怠惰の隠れ蓑。考える時間すらない日々は、嫌だ。そんなもやもやをぐるぐるしている。でも、幸雲南塾の塾生達が皆口にしていたことば。一緒にいる仲間がいるから、大変でも楽しかった。そういう仲間は、私も欲しいなと思う。なんとなく方向性は見えるけど、まだもやっとしている暗闇を、闇雲な手探りではなくなんとかブレイクスルーしたい。

何かを始めたとしても、闇雲に頑張るのではなく、自分の中で大切にしている軸はぶれないようにすること。この一年で改めて自分にとって大切だと実感した、暮らしを大切にするということ。多忙すぎて思考さえもストップする貧しい精神状態にだけはしないこと。それさえきちんと持っていれば、その中で新たな挑戦をすることはありなのかもしれない。それか、私が旗ふり役をしなくても、ハブ的に誰かを繋ぐ役割だってあるかもしれない。

インプットだけでなく、アウトプットもしっかりと。たとえ途中だとしても、今の時点でのわたしをきちんと眺める。

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