蓋事情

区切りというものは、便利なものだと思う。新、ということばに乗っかって、二の足を踏んでいたことにもえいっと飛び込めるし、もやもやしていたことも水に流してしまえる。春という季節も良いのだと思う。どんより曇り空、寒くて常に首をすくめていた季節が終わって、薄着でひなたぼっこができる。野にも色んな色の花が咲いて、グレー一色だった景色に色が戻ってくる。とにかく希望と可能性に溢れている。

くさいものには、蓋を。これはある意味とても健康的で、精神的に弱っているときに敢えてくさいものを嗅いでさらに疲弊するのはしんどい。そう思ってきたけど、蓋をあけるタイミングを失ったくさいものは、中でどんどん腐敗していって、蓋をしてはいるものの若干蓋からくささも滲みでていたりして、いつまでも残る。私はそこから動けず、時は止まったまま。開けると感情が溢れ出して、蓋をした瞬間に舞い戻る。日にちぐすりは確かにあるけど、蓋すりゃいいってものでもないなあと学んだ年だった。薄々気付いてはいたけど、実感として、痛感。

いったん蓋をするのはありだ。だけど、いったん蓋をしてもなかったものにはせずに、今なら大丈夫だと思えるときに、一人ではなく誰かと一緒に蓋を開けて、しんどさも共有できたら、時は動き出し、次に進める。蓋を開けて溢れ出す中のものも感情も、すべて水で洗い流して、ぴかぴかにしてやればいい。きっかけは大切。そして、こだわって動けずにいたのは案外自分だけだったりすることに気付いた。あほくさ。「春だしね」今年はこの言葉を唱えながら、いい感じに気持ちを切り替えられた。蓋しようと思ったことも、蓋するまえにえいっと動いて中をきれいにできた。我ながら、ナイスな幕開け。春。

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