今でこそ、すっかり隠居生活というか完全なる文科系に落ち着いていて、こちらの方がよほどしっくりくるのだが、中高大学時代の私は、それはもう運動ばかりして過ごしていた。

大学時代は、ラクロスという、網がついた棒を持ってボールをゴールに投げ入れるスポーツを熱心にやっていた。真っ黒に日焼けし、髪は常にショートカット。毎日毎日運動しては、うおーと目標に向かってとにかく頑張る。ラクロスが好きというよりは、頑張っている自分が好きだったし、頑張っていることで安心していたように思う。今思えば結構それって危ういなとも思うのだけど、あの頃は疑いもなく突き進んでいた。

後から考えると、大学という長い四年間、もっと色々なことに興味を持って色々な所へ行ったりしてもよかったのでは、と思う自分も少なからずいる。だからこそ卒業して社会人になってからこんなに紆余曲折しているわけで、大学時代にもっといろんな選択肢を考えていたら、と思うことは結構ある。たら、れば、なんて存在しないし、あれはあれで自分には必要な時間だったともちろん思ってはいる。今はもう現役を離れて十年以上経過し、東京も離れ、運動も最近しなくなり、遠い昔の記憶となりかけていた。

でも、最近あれ、と感じる瞬間がよくある。

先日、『百円の恋』という映画を見ていたとき。ラストのシーンでボクシングの試合に負けた主人公の女の子が「勝ちたかったよ…」と涙を流すシーンを見ていたら、ラクロスの試合が終わったときの感情が急に蘇ってきた。もっとやれたのにという後悔があると、私は泣けなかった。もっとあの練習をしておけばよかった。そう思うと、せっかくの試合の場を無駄にした虚無感と皆への後ろめたさに苛まれて、周りは泣いていても私は泣けなかった。だから、大学四年の最後の引退試合の前は、もうあの気持ちだけは味わいたくないと思って、後悔のなきように自分なりに全部やった。やりきったら、涙が出た。あの涙だよね、これ!と、主人公の女の子に異常に共感した。勝ちたかったよね、でもね、やりきらないとその涙ってでないんだよ!て思って、なぜか私も涙が出た。(ばばあ化)

最近、慣れない執筆の仕事をしていたのだが、うまく書けなくて凹んでいる時も、最初から活躍できるわけはないから、後悔だけはなきように今できることを最大限にやるしかない。新入生はへたくそでも、こぼれ球を必死に拾うことで意味があったものね、と言い聞かせている自分がいた。助産師になりたての頃もそうだ。できないなりに、誠意を持ってできることをしていくしかない。そういう精神は、やっぱり部活で培ったし、大人になった今、自分の支えとなっているなと思う。

みんなでわーっとなって一体感!みたいなアツい感じは、歳をとったせいか正直もういいかなと思うし、頑張るという言葉も今はあんまり好きじゃなくなった。頑張るよりも、心地よさとか、ワクワクを大切にする方が健康的だなと思う。好きなことは楽しいから一生懸命やるし、頑張ってやることは「あ、今自分頑張っちゃっている状態だ」と意識できるようになってきた。でも、運動をしてきたからこそ感じる思いは、絶対に今の自分の礎となっているし、ああやっぱり無駄ではなかったよなと思う。部活に時間を費やすこと自体より、試合に勝つ、とかこれをやり遂げる、という目標に向かって猪突猛進してしまうことに修正が必要だったかなと思う。やり遂げて終わり、ではなくて、それをどう生かしていくか、まで考えていきたいというのが今でも課題。たとえば、良い文章を書きあげる!で書き上げて打ち上げ花火で終了ではなくて、どうやったらそれを人に届けられるか、まで広げて考える。とか。

大学のラクロス部の後輩たちが快挙を遂げて、我々の時代から目標にしていた関東学生日本一にあと一歩というところまで来ているそうだ。誇らしい。みんな、これから生きていく上で必要な何かを掴んで、それを広げていって欲しいな。遠く鳥取から念を送っておきます。泣けるといいね。

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