ケの方

研修にかこつけて、九州へ行ってきた。福岡経由の熊本、大分、ちょこっと鹿児島。行きたかった窯元さんに伺い、作られている様子や陶工さんが普段眺めている風景を見られて、とても嬉しかった。

特に印象的だったのが、大分の日田の山奥にある小鹿田焼。十四戸ある家は、大工、左官、酒屋、蕎麦屋を除けば全て窯元(左官と酒屋は現在は閉業)。軒並み窯元が連なっていて、粛々と作業をされている。見たことのない風景。唐臼が土を打つ、ギーバッタンの音。昨年の水害で、土を作るための唐臼が流されたと聞いていたけれど、まだ爪痕は残るものの小鹿田の風景は健在だった。

思い出したのは、鳥取で見たことのある山奥の限界集落。遮るもののない圧倒的な自然に囲まれたその場所が私はとても好きだ。でも、家々が朽ちていて人の気配がないその土地は、正直生きている感じがしなかった。生まれて初めて感じた感覚だった。寂しいな、なんとかならないものかなとも思ったけれど、所詮よそ者の戯れ言。淘汰されていく、朽ちて行く土地もあるのだと知った。環境としてはそこに近いように感じたけれど、日田の皿山は、土地が生きていると感じた。伝統文化があることで、そこに息づく暮らしがあり、そこにいる人達の想いの元、脈々と受け継がれながら土地が人が、生きている。そのことにとても感動した。

十軒ある小鹿田焼の窯元がそれぞれ軒先で器を売っている。ひとつひとつ入ってみると、素人ながらにも個性や違いがわかっておもしろい。小鹿田焼といえば、の飛び鉋や刷毛目という同じ技法でも、窯元ごとに深さやタッチが若干違う。お土産物用といったリーズナブルな量産風のお店から、ひびが入ったり歪んだもののみを軒先で売る窯元。一口に小鹿田焼といっても、スタンスは色々あるのだと感じた。

資料館にあった、小鹿田焼の価値を発見し世に広めた民藝の師、柳宗悦さんの懸念を見てハッとする。自分が小鹿田焼を世に広めたことによって「浅い趣味の茶人達や利己的な商人の介入」があるのではないか、という危惧。浅はかなミーハー心で小鹿田焼を雑貨的に扱ってはいけないなあと背筋が伸びる思いがした。民藝についていつも思うことは、入口の敷居を低くしてもらえること自体は有り難いけど、大事なのはそこからどう自分なりに意味をもって深めていくか。だよなあ。

あまりに小鹿田の光景が印象深かったので、日を変えて再度足を運んだが、金曜夕方の日の入り前の曇った小鹿田と、日曜昼間のぽかぽか晴れた小鹿田は全然雰囲気が違っておもしろかった。外で戯れる子どもさんがいたり、観光客もいたり、また違う日常の様子が感じられた。小鹿田に住む人々は、夕飯のおかずを作りすぎたからおすそわけ、といって器ごとあげるので、家にごろごろ小鹿田の器があるらしい。よそ者の我々からすると、なんて贅沢な…と思ってしまうけれど、日用雑器としてそこで暮らす人々と共に生きてきた小鹿田焼らしい逸話だなと、ほくほく嬉しい気持ちになる。東京でかっこ良く展示されている小鹿田焼は、山奥のこの地で、こうして人々の営みのもと成り立っているのだと知れて、ますます小鹿田焼が好きになった。

今回、底にひびが入ったものと底がぷくっと膨らんだカップを購入した。以前、よその窯元さんの窯出しに行った時に、底がぷくっとした器を生まれて初めて見た。買いますと言ったら、ここがぷくっとなっているけど平気?と何度も聞かれたので、これがいいです、と答えた。東京にいると完成されたものを見る機会が多いのだと、東京を出て初めて感じる。背筋を伸ばして、かっこよく並ぶハレの場。素敵だ。でも、世にあまり出ないぷくっとした器も、私は人の手の温もりを感じて愛おしく思う。ここでしか買えないもの。小鹿田に行って良かった。かっこよく並べられた小鹿田焼の器も、また今度新たな気持ちで眺めてみたいと思う。ハレとケ。両方があって、そのもの。

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管轄外

先日、にっぽんネウボラネットワーク研究所設立一周年記念シンポジウムに行ってきた。コミュニティナースの産科版のヒントを得られるかなと思い、日帰り京都。バスを使わず奮発してはくとに乗ったら、移動時間も有意義に過ごせてとても快適。早朝に鳥取を出て、京都でモーニング。時間をお金で買うのも、たまには悪くない。

ネウボラのことは、二年ほど前に東京でネウボラ研究第一人者の高橋睦子先生のお話を聞いて衝撃を受けたが、フィンランドの子育て環境があまりに違うことと、自分の興味の矛先もその時は若干違っていたので棚上げしていた。時を経て、今かなり興味深く感じている。そして、私がぼやぼやしていたこの二年間の間に日本版ネウボラが実践され改善、進化し続けていることを知る。意識が低かった。あんぐり。

埼玉、京都、徳島…と全国各地で「切れ目ない育児」「妊娠出産育児をつなぐ当事者支援」を実践されている方々のお話を伺う。皆、自分の子育て経験や、しんどかった経験をバネにしたり、今ある制度ではこぼれ落ちてしまう部分を、ないならば自分達で作ろう、という精神で活動されている方々。誰かがやるのを待っているのではなく、自分でやる。しかも「やっているぞ」で終わらせずに、しっかりエビデンスを取って政策提言まで持っていく、という意識が素晴らしい。文句ばかりゴタゴタ言っているだけでは、何も変わらない。ともかく、あつい。日本死ねとか言ってる場合じゃない。ここにこうして動いている人がいる。

よくわからなかったのは「私の立ち位置はどこなのだろう」。参加者の中に病院勤務の助産師さんが見当たらなかったのが印象的だった。子育てひろば、子育て支援NPO、市町村職員、保健師さん、保育士さん…。今回いらしていた方々は、いわゆる「地域」と呼ばれる場所にいる方だと思う。東京の大病院で働いていた時は、病院から退院した方は「地域」へ帰っていった。問題がありそうな人は、MSWと地域連携担当の方につないで、あとはよろしく。勤務している私たちは、その後のことはいまいち見えない。見ない、の方が正しいか。目の前には次々と患者さんがいるから。

今の私の職場は、そことは大きく違う。くくりで言えば病院だけど、小さなクリニックだから一ヶ月健診までは自分が取り上げた赤ちゃんとお母さんは責任を持ってフォローする。「妊娠出産育児をつなぐ」一端は担えている自負がある。つまり、助産院的な立場に近いのかな。でも、そこで背負いきれない部分、地域へつなぐ、というよりは伴走というか、その部分がうまく機能できていないと思う。問題がありそうな方を市町村の保健師さんにつないでも、「助産師さんの方が信頼されているみたいなので、そちらでフォローお願いします」と言われることも多々ある。もちろんフォローしたいしするけれど、個人の頑張りでまわっている支援はなんだか頼りなく、先細りだと思う。そこをどうやって仕組みにしていくか。

今回一番感じたことは、私自身がクリニック内から見えた狭い世界しか知らなかったなということ。マドレのサロンを開いて、クリニックの外に出て初めて「地域にいるお母さん」たちの姿が少しだけ見えた。そして、クリニックの支援の限界を感じた。だから、クリニック以外でも助産師と繋がれる場を、と思ったけれど、なにもそれを全部助産師がやらなくてもいいのか、と今回思った。というか、やっている人達がすでにいる。子育てサークル、自主保育組織、子育て支援センター。それらが、バラバラに点在しているだけではだめで、それらがどうやったら繋がっていけるのか。そこを考えればいいのか、というのが今回の大きな気付き。その上での、クリニックの役割とは何か。クリニックでぶつぶつ叫んでたって、誰にも届かない。

先日、岡山県奈義町で聞いた平田オリザさんのお話を思い出す。奈義町の役場の採用試験には、演劇を導入しているそうだ。能力のみで選ぶのではなく、一緒に働きたい仲間を選ぶ試験。職員が十六万人もいる東京都と違って、八十人で構成される奈義町では、新人だろうが、入った途端クルーになる。一人が色々なポジションをやらないといけない。それは私の管轄外、と一蹴するのではなくて、いろんなことを柔らかくやっていかなければいけない。これは、私も鳥取に来て本当に感じたこと。病院内の役割だけを果たして、便宜上地域につなげばはいおしまい、だった自分には想像もできなかったこと。

ここまで考えてやはり後ろめたく感じるのは、腰を据えられていない自分。でも、今自分の居る場所がよりよい場所になっていくことは、たぶんいいこと。

動けば、動いただけ出会いがある。And then?

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非日常

一昨日の月は実にへんてこな月だった。暗い橙色で、三日月というよりは謎の半円で、あれって月?というような低い場所にあって、五度見ぐらいしてしまった。夕べは、高くて明るい三日月。一昨日のは一体なんだったのだろう。

一昨日の夜は、そんなへんてこな暗い月のおかげで星がとてもよく見えて、空気もきれいで、そんな夜の空を眺めていたら、ふとプサディのことを思い出した。ちびまる子ちゃんに出てくる、プサディ。南の島の少女で、経緯は忘れたがまるちゃんが南の島に行った時に出会った少女。とっても仲良くなって、南の島にいる数日間ずっと一緒にいた。だから、まるちゃんが南の島を去る時は悲しくて涙をぽろぽろ流した。「マルコ、ワスレナイデ」というプサディの手紙に「忘れるわけないじゃん」と言いながら、「そう言いながら、私はいつかプサディのことを忘れてしまうのかもしれないと思った」的なまるちゃんの語りが入っていた気がする。それぐらい、南の島は遠いところ。少女時代の一時の思いなんて、色褪せていくだろうこと。そうやって大人になっていくこと———そんなことが言いたかったのかなとぼんやり思い出すけれど、子ども心に、えっまるちゃん、なんでそんなこと言うの?忘れないでよ!と悲しい気持ちになったような気がする。

まるちゃんが過ごした数日間の南の島での生活は、非日常であり、日常ではない。今は気持ちが昂って、またいつでも会えるよ、と思うけれど、日常の生活に戻ったら、日常に流されて、その思いだって色褪せてしまうだろう。

私の今の日常は鳥取での日常で、仕事をして、ごはんを作って、遊んで、本を読んで、住民票もここにあって、笑ったり焦ったり喜んだり凹んだりして、生きている。でも、ひとたびもし鳥取を離れたら、こんな生活のことも夢のような遠い記憶となって忘れていくのだろうか。また会おうねまた来るね、なんて言っても、また来る時は非日常として来るに過ぎなくて、日常を過ごすのとは絶対に違う。浦島太郎のように、その場所はあっても、人も、状況も、環境も、絶対に変わっている。

東京に久しぶりに帰ると、浦島太郎状態になってどこか寂しさも感じるけれど、東京は二十年以上住んだ場所だし、なにより実家があって家族がいるから、帰って来る大義名分がある。

鳥取の生活は、尊い。今のこの日常がなくなるのはとても惜しいから、ずるずるとここにいる。でも、常にどこかふわふわしている。ふわふわは気楽でいいけれど、根を張っている人が時々羨ましくなる。ここにいる理由なんてなくてもいい。どこにいるかでなくて、誰といるか。わかるよ。わかるけど。

広くて星だらけの空を見ていると、自分がここにいる日常こそが非日常のように思えてきて、根無し草は苦しくなるときがある。東京だって鳥取だって、きっとどこでも一緒。自分の居場所なんて、自分で作るしかない。人生なんて儚いもの。

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先生様

凍っていた階段でつるんと滑って尻餅をついて、膝を痛めた。去年もやったところ。足が痛いと、瞬間的に一歩が出ない。家でやかんのお湯が沸いてピーッと鳴った瞬間。ナースコールが鳴って受話器を取ろうとした瞬間。今まで意識していなかったそういうコンマ何秒で「ためらい」が生じる。その一瞬を気力で「うおお」と越えることは出来るのだけど、その微妙な葛藤がいちいちストレスなのと仕事にも差し障るので病院に行ってきた。

大きな病院なので、三時間コース。待合室のテレビの音量が小さかったのでこれ幸い、本を読もうと思ったが、夜勤明けで眠くて何度も本を落とした。諦めればいいのにまた本を開いて、二行くらい読んでは落とす、を繰り返す。往生際が悪い。

ようやく名前を呼ばれて診察室へ入る。レントゲンで骨には異常なし。半月板も大丈夫そう。鎮痛剤だけ出しておきます、とのこと。痛みがおさまらなければMRIの精密検査を。以上。ものの三分の出来事だった。よくわからないことを質問すると、先生様は面倒くさそうに答え、さっと去られた。呆然としている所へ看護師さんが来てくれて質問に対して親切にひとつひとつ説明をしてくれてようやく理解できた。前回来た時も、先生は事実だけぱっと言い渡して、釈然としないままリハビリ室に行ったらPTさんが丁寧に説明してくれて、ようやく理解できた。お金を払って外に出ると、暖かい良い天気。朝だったはずなのに、気付けば十三時になっていた。ため息。

鳥取に来てから、町のお医者さんにかかってあまりいい思いをしたことがない。理解できないことを質問したら「いいから黙って言うこと聞いてください!」と怒鳴られたこともあった。保険証を見て「看護師さんならわかりそうなものなのにねえ」と嫌みを言われた。わからないから聞いているのに。私は、クレーマーとして映っているのだろうか。でも、自分の身体が不調なことはとても不安だし、お金と時間をかけて病院へ来ているのだからせめて納得するまで説明をして欲しい。その病院は盛況で、大勢のお年寄りが先生様の診察を待っていた。沢山待っている割に待ち時間が短かったのは、ベルトコンベアーのように一人に充てられる診察時間が限られているからで、私は自分に充てられた尺を超過したから怒られたのか。選ぶ余地がないからここに通っている人もいるんじゃないの、と思ってしまう。あそこにはもう二度と行かない。

そして思うのは、翻って自分のこと。妊婦健診やお産の時に「こんなこと聞いて、と思われるかもしれないですけど…」と言われる方がとても多い。余裕がある時は全然良いのだけど、忙しい時は何度も同じことを聞かれると、もうっと思ってしまうことがある。私が看護師さんやPTさんに救われたのは、自分が納得するまで丁寧に話を聞いてくれたから。私がハテナの顔をしていたら、看護師さんの方から近寄ってきてくれて、補足説明をしてくれた。理解できれば、今の状況や痛い事実や、不安な気持ちも受け入れられる。「面倒くさい患者さん」と思わずに、そう言ってしまう患者さんの気持ちを慮る。ようにしたいと思った出来事。膝が痛い。

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機能

服を、防寒の観点でしか見ていなかった。

東京に帰って思ったこと。たまたま東京が暖かかったこともあるが、そうだ、服っておしゃれするためにもあったよね、とはたと気付いた。最近寒さにとらわれすぎて、とにかく少しでも暖かい格好をとばかり考えていた。暖かい格好3パターンくらいをローテーションで着る。特に何の感情も抱かず、適当に着ていた。東京は暖かくて、鳥取仕様の戦闘態勢の服装では暑くて仕方なかった。一枚脱ごうにも、脱ぐというシチュエーションまで考慮していないもったりとした格好なので、脱げない。これはまずい。

大人になって自分の好きなものがわかってきているので、そうたくさんの洋服はいらないかなと思っている。物は減らす傾向へ。たくさんの服よりも、気に入ったものを大切に使う。ベリーグッドではなくグッドイナッフの精神はとても気に入っている。でも、寒くない・皮膚を覆う、という機能だけで服を着るのは、なんだかとっても味気ない。最低限必要なものに加えて、やっぱり機能プラスアルファの部分が欲しいときもある。そういう余白みたいな部分も、結構だいじだよなあ。服には、気持ちをハッピーにさせる力がある。それさえも忘れるくらい、今年の冬はとにかく寒かった。私の家が寒かった、の方が正しいか。古民家の冬の寒さは生半可じゃない。おみそれました。

春に季節が傾いているからか、気持ちも少し外向きになってきた。冬眠していた熊も、のそのそと外の様子をのぞき出す。もう少しでこの家に住んで一年が経つ。春になったら、ひらとした服を着て出かけよう。

 

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東京

急にお休みができたので東京に帰ってきた。服に小さな水玉のような丸い雪がまとわりつく鳥取を後に、弾丸帰省。遅れてきたお正月。飛行機がちゃんと飛んでくれるようでほっとする。最近、飛行機とはてんで相性が悪い。飛行機が離陸して、雪雲の中に突入するとぐらぐらと揺れる。これがずっと続くと厳しいな、というほどのぐらぐら。そういえば、先日鼻炎で鼻が完全に詰まった状態で飛行機に乗ったら、のたうち回るほどの耳痛に襲われたのを思い出した。航空性中耳炎というらしい。車で十二時間かかる距離を一時間ちょっとで飛んで行くだなんて、やっぱりとんでもない魔法みたいなことだよなあとぼんやり考える。

もったりとした雪雲を抜けたら、雲の上には眩しい太陽が光っていた。雲の上は、晴れなのか。さっきまでのどす黒さは、すべてこの雲のせいだったのか。延々と続く雲と太陽のみの世界は、それはそれは天国みたいに明るくて、不思議な光景だった。目の前に見えているものがすべてに感じるけれど、この雪雲みたいに、一枚なにやら扉というかフィルム的なものをはがせば、案外こんな風に全く違う世界が広がっているのかもしれない。普段はトイレに動きやすい通路側の席にするのだけど、今回はなぜか窓側にして正解だった。いつもは夜勤明けで景色なんて見ないで爆睡するのに、今日は休みだったから外を見る余裕があってよかった。そんなことを考えているうちに、結局爆睡。東京は晴れ。暑い。

 

東京は2ヶ月ぶりだ。いつもと違うルートで実家へ帰る。中野坂上の、地下鉄の定期券売り場だった所にスタバができている。中学の時も高校の時も、そこで定期券を買っていた。うちから一番近い定期券売り場だったから常連だった。私が高校生の時に初めてバイトしたパン屋さん兼カフェのすぐ近く。改札をでてすぐだし、スタバだし、強敵ではないか。生存競争に敗れたかなとこわごわ覗くと、ちゃんとパン屋さんもあった。よかった。あったものがなくなることは、寂しい。新しいものが出来ると前何があったのかわからなくなる。当たり前のように、元定期券売り場のスタバでコーヒーを飲んでいるサラリーマン風の人々。頬杖を付いてなにやら深刻そうな顔して本とか読んでいるけど、そこは定期券売り場だったのですよ。と、こっそり見つめる。

ほとんどの人が、黒かグレーのコートを着ている。黒か、グレー。素っ頓狂な色の外套を着ている人はいない。大学生の頃、塾講師のバイトをしていた時に、スーツの上に紫色のコートを着ていた友人が、マリオみたいな風貌の塾長にこっぴどく怒られていたのを思い出す。黒かグレーの中に、目の覚める紫がいたらとても綺麗なのにな。そういう私も、グレーのコートを着ている。端から見たら、私も黒かグレーの人。走馬灯のように昔の記憶が蘇る。私の故郷は、ここ。

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抜きどころ

久しぶりに母たちのサロンを開催した。続けていくのは大変だという印象があったが、抜くところを抜いて、自分自身も肩の力ゆるゆるで場を持ったところ、びっくりするほど楽しかった。そして、最近ずっと考えているコミュニティーナースの産科版のヒントが少しだけ見えた気がした。キーワードは、頑張らないで続けていくこと。自分自身が楽しいこと。これだ。

ご縁があって松江で、昨年度鳥取で開催していたマドレボニータワーキングマザーサロン(的なもの)をすることになり、久しぶりなのでまずはホームの鳥取で練習がてらサロンを開くことにした。今回の鳥取サロンは、いつも使っていた会場なので電話一本で予約完了。チラシは敏腕メンバーが早々に作成してくれた。集客も、いつもは定員いっぱい集めないとと躍起になっていたが、今回はチラシを職場の産科クリニックに置いて、入院中のお母さんたちに声かけしたり、お産をしたお母さん達へ送る赤ちゃん一歳おめでとうハガキの余白で宣伝したりと、最低限のパワーでできた。一年のブランクがあったので、練習も相当せねば…と思っていたが、すべて暗記は無理と諦め、カンペ作成に尽力した。サロンの肝は最後の全体シェアリングの部分だとわかっていたので、その部分はメンバーで集まってプチサロンを開いて詰めておいたので安心できたのかもしれない。つまり、抜きどころを抜きまくったので、準備は全然大変じゃなかった。

いざ、サロン当日。久しぶりのサロンは緊張したが、安心できるメンバーのもと、一年前の時が戻ったかのようなあたたかい場。たたた、たのしい!進行役をメインでやっていた一年前は、次期進行役を鳥取から輩出させねば…と意気込んでいたため、サロン自体も「うまくやらなくちゃ」とファシリテーターの私自身が正解を求めて力が入りすぎていたように思う。場数を踏んだからか、時を経たからか、次のサロンの予定がない単発だからかわからないが、うまくやるよりも、貴重なこの場自体を楽しむことができた気がする。参加者の母たちの口から出てくることば全てが新鮮で愛おしくて、この時間が続けばいいなと思えた。クリニックにいる時は、やはり母になりたての女性に育児を伝える助産師、という立場だ。だから、母という役割も含めて一人の人として女性と向き合えるサロンの場は、トータルでその方を見ることができる良い機会になった。サロンの会場を、お金がかからないクリニック内のホールにしようかとも考えたが、やはり立場が混在しない違う場所での開催でよかった。

特に印象に残ったのは、一年以上前にうちのクリニックでお産をされたお母さんのことばだ。初めてのお産だったが、入院中はニコニコ笑顔で育児も楽しそうにされていた。産前クラスでお産を目前をした母たちへお産の体験を話してもらったりした。一ヶ月健診の時も、順調そうだった。だから、これからもこの感じで自分のペースでゆったりと育児を続けていくだろうと安心していた。その方が、一ヶ月健診の後くらいから、精神的に不安定になって、パートナーとの関係性もちぐはぐになり、かなりしんどい時期があった、とサロンで話されていた。今は越えたけど、あの時は本当にしんどかった、と。衝撃だった。そして、やはりクリニックにいるだけでは見えないものがあるのだと思った。私の勤めているクリニックは前にいた大病院と違って、産後もかなりお母さんたちと近く、継続的におっぱいフォローや電話訪問などもできていると思う。それでも、やはり一ヶ月健診を終え、足を運ぶきっかけがなくなると、お母さんたちは孤独になってしまうのだと思った。だから、たとえばこういうサロンのような場だとしても、子育て支援センターとはまた違う、お産や産直後の時間を共にした助産師と繋がっていられる場所が必要なのだと思った。

コミュニティーナースの産科版的なことができたらいい。どういう形が良いのかと最近ずっと考えているが、これもひとつの形だと思った。自分からぐんぐん外に行けない人でも、クリニックの紹介ならばなんとか足を運べる。そういうツールとしてサロンを使うのも良いかもしれない。

私がしたいことは、私の周りにいる目の届く範囲のお母さんたちがまずはハッピーになること。自分のキャパを越えて、鳥取、米子へと進出せずとも、クリニックと繋がった倉吉のこの地で、こういう場を定期的に作っていくことに意味があるのではないか。抜くところは抜いても、抑えるところをしっかり抑えれば十分意味はある。

サロンのために学んだマドレの研修で、「ここで学んだことを、自分の土地で活かしてください」と言われた。このプロジェクトの目的は、マドレを広めることではなくて、産後ケアが当たり前に受けられる社会にしていくこと。利益目的ではなく、社会を良くすること。なんて太っ腹なんだと感動したのを覚えている。それって、こういうことだったのかなと、一年以上の時を経て感じるものがあった。良い機会だった。

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