ふるさと

ずっと行きたかった津和野に行ってきた。絵本作家の安野光雅さんの故郷。石州瓦の優しいオレンジ色の瓦屋根の家々が軒を連ねる。津和野城跡のある高見から眺める津和野の町並みや、その中を黒煙を吐きながらのそのそ動くSLは、安野さんの書く旅のえほん、日本の懐かしき原風景そのものだった。感無量。

城下町の古い町並みや、大自然。歴史ある場所や風景、それらは確かに趣があって素敵だ。でも、それを言えば、私の住む倉吉の白壁土蔵群だって負けていない。白い漆喰の壁や土蔵の町並みは岡山の倉敷だってある。町並みや自然だけならば他にもあるのだ。そうしたら、津和野のスペシャルはなにか?と考えると、私にとっては安野光雅さんの故郷ということ、それに尽きる。以前に金子みすゞさんの故郷、山口県の仙崎に行った時も思ったが、やはり自分の好きな作家の軌跡や原点を知るためには、その人が吸った空気を吸い、その人が見た景色(時代と共に変わっているにしても)を見る。そして、その人を想いながらその土地を歩く。感じる。それこそ、そこでしかできない本当に尊い時間なのだと感じた。

 

東京を出て田舎に住むようになって、土地や町を見る視点が変わった気がする。前は、田舎は田舎なだけで都会とは違う場所でありスペシャルだった。でも、今はこの田舎は私の住む田舎と何が違うのだろう?と比べるようになった。この町は鳥取でいうどこら辺りに当たるかな、と考える。都市でも、大阪や神戸の関西圏が近くなったので、初めて行く街は東京でいうどこだろう、と。比較対象が増えることは、おもしろい。

 

確かに絶景やここでしか食べられないものはあるし、奇抜なイベントを企画して集客するという方法もあると思う。でも、今回津和野に行き、安野さんが猛烈に津和野を愛する気持ちが伝わってきて、その地に住む子どもに自分の田舎を大好きにさせることこそが、実は長い目で見て一番その土地を死なせない最善の方法なのではないかと思った。故郷を離れたとしても、こうして自分なりの表現で故郷を思い続ける。その思いが、全く関係のない私のような人間の心を動かし、車で6時間もかけて津和野まで足を運ばせた。子どもに「こんな場所、何もなくて退屈だ」と思わせず、「自分の原点はここにある」そう思ってもらえるような故郷を、大人の私たちも見つめ直すべきだと思った。

 

―――――――――――――――――――――――――

故郷とはなんだろう?

たとえば故郷津和野には誇るべきものがたくさんある。森鴎外の生地だ。西周も生まれている。鯉がいる。鷺舞いが有名だ。稲成神社もある。城跡もある。と、津和野を訪ねてくれた人は、口をそろえてすばらしいところだとほめてくださる。

わたしは、それもそうだけど、と考える。わたしがこどもの頃から考えてきた故郷としての津和野は、そのような有名なことがらだけではなかった。有名でなくてもいい、そこには走りまわった山があり、いっしょに遊んだ友達の家があり、田舎の言葉が生きていて、九九を覚えさせられたりした小学校があるところ、故郷とはそんなところのことだ。正直に言うと、わたしは鴎外先生よりも小学校の先生の方が懐かしい。

                   (安野光雅

安野光雅美術館

f:id:saorelax:20160503071946j:plain