偉大なる平凡

 先日、鳥取県立図書館で行われた鞍田崇先生の『いまなぜ民藝か』という講演を聞いて、目の前のもやがスッと晴れた。自分が今、人生の岐路というか迷いの最中にありナーバスな状態であったこともあり、余計。

 

「与えられたレールの上をスマートに生きるよりも、ぎこちなくも一つ一つの人や物との出会いを自分たちの感性で創造していくこと。それを力強く肯定してくれるのが民藝———。」

(<民藝>のレッスンつたなさの技法/鞍田崇)

 

そのことばを聞いて思い浮かんだのが、同じ職場の大好きなカリスマ助産師さんの姿だ。彼女は、「お産時の出血を減らす」研究をしており、先日その研究成果を私達に発表してくれた。過去二年間、推定1000件のお産と出血の関係を表す分布図を作成していたのだが、それがなんと手書きなのだ。「夜勤の度に、夜な夜な点を書いていったの」と照れくさそうに笑うその姿と、ペンで書かれた蟻の群れのような細かい点々を見て、私は感動してしまった。エクセルを使えば一瞬でできるのに…とよぎった思いがなんとも野暮だ。そんな常識をはね飛ばすような熱意。常識とか効率とか、世の中そういうものばかりではないのだな、と心底思った。そして、この助産師さんこそが私にとっての民藝だと思った。だから私は、彼女の技や人間性を含めた彼女そのものを受け継いでいく。

 

民藝に興味を持ち、夏期学校に参加したり本を読んだりしてきた。沢山の民藝に精通した方々と知り合いになり、色々な話を聞いた。ブーム化し一人歩きする「民藝」ということば、雑貨化する民藝、本物とは何か、民藝館と民藝協会の関係、商売と文化の共存の問題、お金周りの問題などなど。その中でなるほど、と合点することと共に、なんだかよくわからない違和感、ざらつきがたくさんあった。そいつらを、私はなんとか理解したいと努めてきたし、それが理解できない限りはことばにしてはいけないとなぜか思い込んでいた。でも、そういうざらつきこそが鞍田先生の言う「ノイズ」でありそれはそれで自分のなかで流さずとっておいたらよいのだと思った。

 

もっと言えば、私が東京から鳥取に来て感じた感情や、ざらつき。これらも「ノイズ」である。それを土の人化することで必ずしも同化せずともよくて、よそもの——風の人の立場で自分なりにもがきながら自分なりの「コード」を描いていけばよいのだと思った。そうして、主体性を回復していくとともに、かといってドヤ顔はせず、シュッとした感じとは違う、泥臭さい「平凡」を重ねていく。

 

鞍田先生は、民藝について多角的に考えておられる点がとても面白かった。話は、柳宗悦氏のことばをどう解釈するかに留まらず、アート、田舎と都会、音楽や女性性にまで及ぶ。今まで自分の中に点で存在したものたちが、細い糸で繋がっていく。おもしろい。私は自分が生きていく上でのヒントが欲しかったのかもしれない。だから民藝が気になっているのかもしれない。現時点では、そう思った。

まだわからないことは、「ノイズ」のまま棚上げして置いておこう。

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