オイボッケシ

“Oibokkeshi”

老い、ボケ、死。ふつうだとネガティブな印象で目を背けたくなることたちだが、向き合うことでむしろプラスに向かうことができる。そう謳っている、岡山県奈義町で菅原直樹さんが作った老人が主役の劇団だ。最近、離れて暮らす祖母が認知症になり、老い、ボケ、死を身近に感じていた。もやもやと消化しきれない気持ちを抱えていたところだったので、とても興味深く動向を追っている。

 

ボケを正すか、受け入れるか。

理屈にこだわるよりも、感情に寄りそう関わりをすること。

 

先日、久しぶりに帰った実家で、遅い時間に家に帰ったら祖母が玄関でカンカンに怒って待っていて、支離滅裂な理由で大きな声で叱られる、という出来事があった。その時はあまりに驚いて自分も感情的になってしまったが、母に「明日には覚えていないから…」とたしなめられて初めて祖母の認知症というものをリアルに感じた。今までのしっかりしたおばあちゃん像が、ガラガラと崩れていく感覚。とてもショックだった。ボケを受け入れることは、どうせ言ってもわからないからと「おばあちゃんを見限る」ことに繋がるのではないか。ボケを正せば、元のしっかりしたおばあちゃんに戻るのではないか。そんな考えが行ったり来たりして、自分の中でずっともやもやと残っていた。

 

だから、菅原さんからボケを受け入れ、介護者は役者になって違う役割を演じることで相手とのその瞬間を最大限に楽しむといいという話を聞き、とてもしっくりきた。認知症になると、中核症状である記憶障害、見当識障害、判断力の低下はあるけれど、感情は残っている。ボケを正したとしても議論は平行線だし、悲しい、嫌な空気になりそうだ。さらに、菅原さんは、おばあちゃんは祖母という役割をやりたかったのかもしれない、と言われた。今まで、妻役割、祖母役割、親役割、など色々な役割を担ってきたのに、老人になると一気に役割がなくなる。そこで座ってテレビを見ていて…という退屈な日々の中で、久しぶりに遅く帰ってきた孫を叱る、というおばあちゃん役割を果たしたかったのかもしれない。そう考えるとなんだかむず痒い、嬉しい気持ちにもなった。明日どうなるかわからない九〇歳のおばあちゃんと交わる時間はとても貴重で、演劇を通じておばあちゃんの世界に入り込んで、喧嘩ではなく少しでもハッピーな瞬間を過ごせた方が絶対良い。

 

演劇には、今までほとんど関心がなかった。でも、たまたま読んだ平田オリザさんの本に感動し、青年団に興味を持ち、そうこうしていたら青年団の菅原さんが奈義町に移住され、出会い、私が悩んでいたことのヒントをくれた。繋がっていく感覚がありがたいし、たのしい。

 

発想の転換で、ため息でかすんだ未来がなんだかワクワク彩られた。これからも自分なりに咀嚼しながらオイボッケシと向き合っていきたい。

 

 

Oibokkeshi

motokurashi.com