非日常

一昨日の月は実にへんてこな月だった。暗い橙色で、三日月というよりは謎の半円で、あれって月?というような低い場所にあって、五度見ぐらいしてしまった。夕べは、高くて明るい三日月。一昨日のは一体なんだったのだろう。

一昨日の夜は、そんなへんてこな暗い月のおかげで星がとてもよく見えて、空気もきれいで、そんな夜の空を眺めていたら、ふとプサディのことを思い出した。ちびまる子ちゃんに出てくる、プサディ。南の島の少女で、経緯は忘れたがまるちゃんが南の島に行った時に出会った少女。とっても仲良くなって、南の島にいる数日間ずっと一緒にいた。だから、まるちゃんが南の島を去る時は悲しくて涙をぽろぽろ流した。「マルコ、ワスレナイデ」というプサディの手紙に「忘れるわけないじゃん」と言いながら、「そう言いながら、私はいつかプサディのことを忘れてしまうのかもしれないと思った」的なまるちゃんの語りが入っていた気がする。それぐらい、南の島は遠いところ。少女時代の一時の思いなんて、色褪せていくだろうこと。そうやって大人になっていくこと———そんなことが言いたかったのかなとぼんやり思い出すけれど、子ども心に、えっまるちゃん、なんでそんなこと言うの?忘れないでよ!と悲しい気持ちになったような気がする。

まるちゃんが過ごした数日間の南の島での生活は、非日常であり、日常ではない。今は気持ちが昂って、またいつでも会えるよ、と思うけれど、日常の生活に戻ったら、日常に流されて、その思いだって色褪せてしまうだろう。

私の今の日常は鳥取での日常で、仕事をして、ごはんを作って、遊んで、本を読んで、住民票もここにあって、笑ったり焦ったり喜んだり凹んだりして、生きている。でも、ひとたびもし鳥取を離れたら、こんな生活のことも夢のような遠い記憶となって忘れていくのだろうか。また会おうねまた来るね、なんて言っても、また来る時は非日常として来るに過ぎなくて、日常を過ごすのとは絶対に違う。浦島太郎のように、その場所はあっても、人も、状況も、環境も、絶対に変わっている。

東京に久しぶりに帰ると、浦島太郎状態になってどこか寂しさも感じるけれど、東京は二十年以上住んだ場所だし、なにより実家があって家族がいるから、帰って来る大義名分がある。

鳥取の生活は、尊い。今のこの日常がなくなるのはとても惜しいから、ずるずるとここにいる。でも、常にどこかふわふわしている。ふわふわは気楽でいいけれど、根を張っている人が時々羨ましくなる。ここにいる理由なんてなくてもいい。どこにいるかでなくて、誰といるか。わかるよ。わかるけど。

広くて星だらけの空を見ていると、自分がここにいる日常こそが非日常のように思えてきて、根無し草は苦しくなるときがある。東京だって鳥取だって、きっとどこでも一緒。自分の居場所なんて、自分で作るしかない。人生なんて儚いもの。

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