過程

先日、大山に住む絵描きの朝倉弘平くんのライブペイントに行ってきた。生原幸太さんのヴィオラに合わせて弘平くんがその場で絵を描いていく、というもの。耳をすませて、聞こえた音に対してまっさらな白いキャンバスに色がついていく。この音を鳥の鳴き声と感じたんだ、とか、聞こえた音が弘平くんのフィルターで変換されて絵になっていく様子がとても興味深い。出来上がった絵は、途中の絵からは想像もできないような完成されたもので、過程が見れるということに私はすごくワクワクした。

以前、ほぼ日刊イトイ新聞の今日のダーリンを糸井さんが書く様子を映像で中継する、という企画があったけれど、それもとてもおもしろかった。糸井さんが書いては消して、書き直していく頭の中が見えること。単語を変えたり、ことばや言い回しを変えたり。今日のダーリンは大好きで毎日読んでいたけど、こうやって作られているんだ、という過程が見えて一層好きになった。完成されたものには、当たり前だけど過程があって、一発勝負のものももちろんあるだろうけど、やはり勝負にかかる前に作る人の感情や心境や想いが介在する。そこに人間らしさや親近感を感じるのだろうか。

そんなことをぼんやり考えながら、ライブペイントの後に温泉に行ったら、小さな女の子が私を指差して「あれ誰ー?」と、お母さんに言った。こちらもひょうきんモードになり「誰だろうね〜」なんて返して「コラッ!ごめんなさいねーお姉さんよ」なんて会話が続いたけれど、これまたおもしろいなあと思った。「あれ誰?」つまりフーイズザット。間違ってない。強いて言えば、「あれ」だと物に対して言う感じでちょっと相手に対して失礼だから、「あの人」だとベター。でも、何?ではなく誰?と言えたのは正解、とかそういう感じだよなあ。

穂村弘さんは、短歌とビジネス文書では良さが逆になると言っていた。たとえば、「空き巣でも入ったのかと思うほど私の部屋はそういう状態(平岡あみ)」。これは、「そういう状態」だからぐっとくるのであって、「私の部屋は散らかっている」では全然おもしろくない。「散らかっている」の方が世間一般的には状況が的確に伝わって正しいとされているにも関わらず、だ。大人になると、こうして修正がかかる。たとえば、さっきの女の子の例でいえば、「あれ誰?」だと失礼だから「あの人誰?」だよな。でも、「あの人誰?」て言うのも失礼だから、思っても言わないでおこう、とか。そういうごにょごにょが頭の中で繰り広げられて、粗相しない、お行儀の良い失礼じゃない人間が出来上がっていく。その過程を経ず、思ったことをそのまま口にする女の子に、清々しさというか人間らしさを垣間みた。その日ずっと考えていた「過程のおもしろさ」がそこに繋がり、湯に入りながら一人でニヤニヤしていた。おしまい。

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